志賀先生と私        -そして志賀先生への想い

志賀先生と私        -そして志賀先生への想い

第 2 部 中高一貫数学コース (2024.5.24 投稿)
 平成14年1月31日をもって27年間の北海道公立高校教員を退職し、2月1日桐蔭学園中等教育学校教員に採用されました。
 赴任のため家族4人で苫小牧港から大洗港までフェリーに乗りましたが、大洗港入港時に大時化で沖合待機を何時間かしたのですが、恐怖で1歳の次女が大泣きしたことを覚えています。長女は桐蔭幼稚園の年長組に入学、パーキンソン病を発症して介護3級となった母との同居もスタートしました。
 1期生の1年目と言うこともあり、2月3月は志賀先生の授業の補助としての仕事と当時志賀先生が執筆していた中等一貫数学コースと数学を楽しむの作業の補助、そして志賀先生がセンター長として担当されていた講義や運営などの補助の仕事をするなど、毎日が目が回るほどの忙しさでした。
 毎朝仕事始めに鵜川理事長に前日の日誌を通して報告を済ませ、その後は志賀先生の授業に関わるシラバスやプリント類の印刷などを行い、実際のSクラスの授業はAコース(志賀先生+私)、Bコースを女子部から移籍したFさんが担当しました。桐蔭学園中等教育学校の学級構成は1学年4クラス、そのうちの2クラスを志賀先生の教科書で指導するSクラス、残りの2クラスを灘高教員を退職して桐蔭学園数学科の相談役になっていた鵜川理事長の友人のT氏の下で、「Aコースの代数、幾何」をもとに4~5名の数学科の教員(私もメンバーに入れられました)が週1回集まり、「桐蔭の数学」(幾何・代数)を作成して使用していました。


第 1 部 出会い (2024.3.24 投稿)                        
 平成13年1月、酒田出身の大学時代の友人O君と電話で昨年取り組んだ数学の話をしていました。当時、北海道算数数学研究会高校部会事務局長をしていた私が何気なく、今年夏に行われる研究会講師を誰に頼もうか悩んでいるというと、「志賀先生に頼んだらどうか」と返事が返ってきました。文部省の「ゆとり教育」で学校現場が揺れ動いていた時期でもありました。志賀先生は大学生に対する数学の参考書、中高生には知的好奇心を喚起する一味違う数学の入門書・啓蒙書として非常に人気を博した数学書を執筆されていました。そんな志賀先生が講義依頼を受けてくれるかと半信半疑でしたが。一週間位かけて10枚以上レポート型便箋に、私がなぜ志賀先生に講演していただきたいと考えたか必死に書いて送りました(基になった下書きは残念ながら逸出)。それから10日ほど後でしたか。志賀先生からお手紙が届きました。そこには「新潟の高校で校長(教頭かもしれません)をしているお兄さんの具合が悪く、ご希望に添えない」と書かれていました。それでもあきらめきれなかった私は、連絡先の桐蔭学園生涯学習センター(当時秘書をされていた方が桐蔭学園中等教育学校で唯一担任した生徒のお母さんでした。生徒は順天堂大学医学部現役合格、腎臓移植の専門医として活躍中)に何回か電話をさせていただいて、改めて検討をお願いしました。最終的に、お兄さんの状態次第では直前のキャンセルも可という約束で承諾していただきました。キャンセルされたらという不安もありましたが、何とか実現することができました(残念ながら、お兄さんは翌年春亡くなられました)。逆に私のサプライズで、研究会前日に釧路湖陵高校での生徒・教職員の皆さんへの公開講座を行っていただくことができました。大役を果たして、お礼の手紙や返信のやり取りをしてほっとしていた10月初旬、志賀先生から自宅に電話がかかってきました。この年の4月から日本で初めて中等教育学校7校が認可され、桐蔭学園中等教育学校では志賀先生の教科書「中高一貫数学コース ○年」、問題集「中高一貫数学コース  数学○年をたのしむ」(解答・解説は生徒の考え方の視野を狭めるという観点でつけられていません。啓林館の現行教科書「システム数学」の考え方もこれに近いのかな)を使った授業の1年目でした。その仕事を一緒にやってくれないかという本当に恐れ多いお誘いでした。私の立場や年齢、沼津市で一人暮らしだった母親が動けなくなったこと、下の娘が生まれたばかりだったことなどで大いに悩みました。しかし、ほとんど2日に1回かかって来る志賀先生からのお誘いの電話、当時の私の学校長が上記研究会の高校部会長だったこともあり、研究会で面識があった関係で、校長先生を説得して2人がかりで説得されました。平成14年1月31日北海道公立高校教員を退職し、2月1日から桐蔭学園中等教育学校に転職しました。ここまでが詳しいことを抜きにした私と志賀先生との短いながらの第1期の期間です。
(予告) 第2期の期間では、本当にいつ朝が来たのかわからない日々、志賀先生に叱られたことや志賀先生に全日空ホテルの最上階のステーキハウスでステーキを食べさせてもらったことなどの思い出、桐蔭学園中等教育学校での学習指導と志賀先生・私との関わりなどなどの出来事を連載形式でお話しすることにします。
当時、京都大学教授だった上野健爾先生に掛けられた大切な言葉、
今は亡き安倍晋三氏が初めて自民党幹事長に選ばれたときのことなどお話しできればと思っています。
適塾よこはまの閉業の始末が3月一杯かかり。新しいHPの下での準備と有志の方々の協力と企画・運営の準備などから、第2期を載せるのは、4月下旬を予定しております。ご期待ください

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