志賀先生と私 -そして志賀先生への想い
第 3 部 中高一貫数学コース その後 (2024.8.05 投稿開始 ⇒ )
私が本格的に授業を担当したのは、第2期生が入学した平成14年度4月の授業からでした。Sクラスは各学年(1年・2年)Sα・Sβの各1クラス計2クラス、TクラスもTα・Tβの各1クラス計2クラス編成でした。中等1年・2年のSクラスの授業はそれぞれSαのAコース(4単位)を志賀先生・私、Bコース(3単位)を前年度同様にTMさんが担当、Sβは中学部、女子部から移動された方が担当しました。私は併せてTコースのTαの幾何(3単位)も担当しました。
その他に、志賀先生との毎週1回午後のゼミ(教科書・問題集の意図や指導ポイント、課題設定等に関わる協議と執筆中の教科書3年・4年・5年の内容や狙いに関する指示の確認・実現化、また現行の中学・高校教科書の実情紹介とそれに対する対応など、Sクラスの年間・期間授業計画とAコース・Bコースの授業内容・試験内容の調整・協議、問題集を補助する授業プリント・課題プリントの作成、生徒向け探求型ゼミのテーマの企画・運営・必要資料の作成など)を設定して、Sクラス担当の方々(当時の桐蔭学園では「先生」という呼称はなく「さん」)に、志賀先生の教科書を使うときの授業指導のポイント、テーマや課題の設定などを提示して協議していました。当時は前期・後期の2期制でしたが、とても私1人では対応しきれないことから、志賀先生と協議の上で次年度Sクラス担当教員2名の増員を理事長にお願いして、ご夫婦で都立高校で数学教師をされていて、都数研で協力員をしていたHM氏、長野市の中学校で数学教師をされていたK氏の2名の方を次年度迎え入れることになりました。Sクラスの授業を教えていて特に感じた点は、数学の学習と受験勉強が一致していることを望む保護者、生徒の希望の強さでした。これは、当時の文部省発の「ゆとり教育」を中心にした学習指導要領改訂に対する不安感に根差したものでした。それでもSクラス1学年2クラス90名の生徒のうちで、志賀先生の新しい数学教育にあこがれたて選択した比較的理解力のある20名弱は、学習内容の新鮮さや面白さを実感して積極的に受け入れようとしていました。そのため、授業フォローの中心は中・下位層の生徒に学習内容と受験勉強との関連を具体的にするための振り返りプリントや課題提示をすることでした。そのための添削指導や質問応対に注力しました。志賀先生には、なぜこのことを学ぶのか、そこで問題となるのはどういうことで、それを理解して解決するためにはどういう数学的な手立てがあり、何を身につければよいかという本質的な事柄を中心として授業をしていただき、私やBコース担当のTN氏が論理の立て方や式の働きとそれで表現される規則性の働きのとらえ方、具体化と一般化の関係性など受験勉強につながる具体的な演習を中心とした補充授業を行っていました。
また、夏、秋、冬期の研修機関には、5日間午前中の時間帯で、志賀先生に問題集「数学を楽しむ」から抜粋したテーマで探求型の特別講習を行っていただきました。講義のテーマや概略については事前に生徒にラフプリントを配布、終了後に私がまとめた志賀先生の講義のレクチャーノートを冊子にして生徒に配りました。
興味を持った生徒たちはそれを使って各自がまとめ直していたようです。
定期試験は、年間前期中間試験・前期期末試験、後期中間試験・後期期末試験の4回(適宜単元テスト)で、Sαの試験問題と範囲はAコースは志賀先生と私、Bコースは担当のTMさん(一部は私と協議)、SβはA・Bコースとも担当の方々(一部は私と協議)の形で作成しました。志賀先生自筆の問題例なども保管してあります。機会があれば公開したいと思っています。
第 2 部 中高一貫数学コース (2024.5.24 投稿⇔8月1日追加投稿)
私は、平成14年1月31日をもって27年間の北海道公立高校教員を退職、同年2月1日桐蔭学園中等教育学校教員に採用されました。
赴任のため家族4人で苫小牧港から大洗港までフェリーに乗ったのですが、大洗港入港時に大時化で沖合待機を何時間かした時に、当時1歳の次女が恐怖で大泣きしたことを覚えています。長女は桐蔭幼稚園の年長組に入学、パーキンソン病を発症して介護3級となった母との同居もスタートしました。
桐蔭中等教育学校では、1期生の1年目ということもあり、2月3月は志賀先生の授業の補助としての仕事と当時志賀先生が執筆していた教科書「中等一貫数学コース」と参考書・問題集「数学を楽しむ」の作業の補助、そして桐蔭学園生涯学習センター長でもあった志賀先生のお仕事や担当されていた講義・運営などの補助をするなど、毎日いつ寝たのかもわからないほど目が回る忙しさのでした。校内的には、毎朝仕事始めに鵜川理事長に前日の日誌を通した報告を行い、鵜川理事長からの指示事項、質問・意見に対する応答を当時理事長秘書を兼ねていた校務部長のSK氏を通して調整・協議を行うことと並行して、志賀先生の授業に関わる全体計画のチェック、シラバスやプリント類の作成・印刷、授業内容の方針作りやディスカッション・教科書・問題集の内容についての協議などを志賀先生と毎週1回の定期ゼミと不定期な協議を行っていました。実際のSクラスの授業はAコース(志賀先生+私)、Bコースを女子部から移籍したTNさんが担当しました。桐蔭学園中等教育学校の学級構成は1学年4クラス、そのうちの2クラスを志賀先生の教科書で指導するSクラス、残りの2クラスを灘高教員を退職して桐蔭学園数学科の相談役になっていた鵜川理事長の友人のTN氏の下で、「Aコースの代数、幾何」をもとに4~5名の数学科の教員(私も所属メンバー)が週1回集まり、「桐蔭の数学」(幾何・代数)を作成して使用していました。これについては中等教育学校数学科主任のIさんを中心にして、鵜川理事長の指示で私も毎週1回放課後3時間くらいかけて、「Aコースの代数、幾何」からの抜粋・問題選別等を中心に作成作業が進められました。ただ、「Aコースの代数」は桐蔭学園男子部所属のSN氏を中心とするグループでほぼ完成していたように記憶しております。
平成14年4月からの新学期からは、中等2年SαクラスのAコースを志賀先生が1単位、私が3単位、Bコース3単位をT氏が、中等1年SαのAコースを志賀先生が1単位、
私が3単位、BコースをTM氏が3単位もちました。この時点でようやく中等3年生の教科書「中高一貫数学コース3年」が出来上がり、年度途中で問題集「数学を楽しむ3年」が出来上がりました。これからは、中等1年、2年のSα , SβのA・Bコースのシラバスや授業内容の協議や質問応答、試験問題作成に関わるレベルや内容についての協議などSクラスの学習計画全体を私が志賀先生と協議しながら、SN氏やSβを担当していただく方々の協力を得て運営することになりました。それらについては日々鵜川理事長へ報告のための日誌を提出し、翌日の朝の校務部長S氏からの電話による指示、鵜川理事長からの日誌に対する指示などの確認と必要事項の志賀先生との調整など、ただただ全速力で突っ走っていたことが記憶にあります。そんな中での志賀先生の授業の補助では、志賀先生が教科書の中にかいてあることで、何を大切にして生徒にどのように伝えようとしているかなどを読み取っていく経験は、本当に「無知の知」なのでしょうか新鮮な発見がいくつもありました。
また、毎週1回の午後の研修日に桐蔭学園生涯学習センターに行って直接志賀先生の指導を受ける数時間は何者にも代えがたい時間でした。
とにかく、こうして過ごした最初の1年と2か月間の桐蔭学園中等教育学校での生活は、夏などは気づいたら窓の外が明るくなっていて、慌てて1,2時間の睡眠をとって学校に行く日々でした。良くもったなーと自分でも感心しています。反面、これだけのことをした結果をちゃんと志賀先生が見守っていてくれたと思うと、本当に頭が下がります。
(注) 思い違いの個所や忘れていることなどを後で気づくことがあるかと思いますが、今はストーリーの連続性だけに注意して書いていっています。ご容赦ください。
第 1 部 出会い (2024.3.24 投稿)
平成13年1月、酒田出身の大学時代の友人O君と電話で昨年取り組んだ数学の話をしていました。当時、北海道算数数学研究会高校部会事務局長をしていた私が何気なく、今年夏に行われる研究会講師を誰に頼もうか悩んでいるというと、「志賀先生に頼んだらどうか」と返事が返ってきました。文部省の「ゆとり教育」で学校現場が揺れ動いていた時期でもありました。志賀先生は大学生に対する数学の参考書、中高生には知的好奇心を喚起する一味違う数学の入門書・啓蒙書として非常に人気を博した数学書を執筆されていました。そんな志賀先生が講義依頼を受けてくれるかと半信半疑でしたが。一週間位かけて10枚以上レポート型便箋に、私がなぜ志賀先生に講演していただきたいと考えたか必死に書いて送りました(基になった下書きは残念ながら逸出)。それから10日ほど後でしたか。志賀先生からお手紙が届きました。そこには「新潟の高校で校長(教頭かもしれません)をしているお兄さんの具合が悪く、ご希望に添えない」と書かれていました。それでもあきらめきれなかった私は、連絡先の桐蔭学園生涯学習センター(当時秘書をされていた方が桐蔭学園中等教育学校で唯一担任した生徒のお母さんでした。生徒は順天堂大学医学部現役合格、腎臓移植の専門医として活躍中)に何回か電話をさせていただいて、改めて検討をお願いしました。最終的に、お兄さんの状態次第では直前のキャンセルも可という約束で承諾していただきました。キャンセルされたらという不安もありましたが、何とか実現することができました(残念ながら、お兄さんは翌年春亡くなられました)。逆に私のサプライズで、研究会前日に釧路湖陵高校での生徒・教職員の皆さんへの公開講座を行っていただくことができました。大役を果たして、お礼の手紙や返信のやり取りをしてほっとしていた10月初旬、志賀先生から自宅に電話がかかってきました。この年の4月から日本で初めて中等教育学校7校が認可され、桐蔭学園中等教育学校では志賀先生の教科書「中高一貫数学コース ○年」、問題集「中高一貫数学コース 数学○年をたのしむ」(解答・解説は生徒の考え方の視野を狭めるという観点でつけられていません。啓林館の現行教科書「システム数学」の考え方もこれに近いのかな)を使った授業の1年目でした。その仕事を一緒にやってくれないかという本当に恐れ多いお誘いでした。私の立場や年齢、沼津市で一人暮らしだった母親が動けなくなったこと、下の娘が生まれたばかりだったことなどで大いに悩みました。しかし、ほとんど2日に1回かかって来る志賀先生からのお誘いの電話、当時の私の学校長が上記研究会の高校部会長だったこともあり、研究会で面識があった関係で、校長先生を説得して2人がかりで説得されました。平成14年1月31日北海道公立高校教員を退職し、2月1日から桐蔭学園中等教育学校に転職しました。ここまでが詳しいことを抜きにした私と志賀先生との短いながらの第1期の期間です。
(予告) 第2期の期間では、本当にいつ朝が来たのかわからない日々、志賀先生に叱られたことや志賀先生に全日空ホテルの最上階のステーキハウスでステーキを食べさせてもらったことなどの思い出、桐蔭学園中等教育学校での学習指導と志賀先生・私との関わりなどなどの出来事を連載形式でお話しすることにします。
当時、京都大学教授だった上野健爾先生に掛けられた大切な言葉、今は亡き安倍晋三氏が初めて自民党幹事長に選ばれたときのことなどお話しできればと思っています。適塾よこはまの閉業の始末が3月一杯かかり。新しいHPの下での準備と有志の方々の協力と企画・運営の準備などから、第2期を載せるのは、4月下旬を予定しております。ご期待ください。