志賀浩二先生 年譜
平成13年、北海道算数数学教育会高等学校部会の講演をお願いするために、その1年前に便箋5枚にびっしりと私の数学教育に対する考え方、なぜ志賀先生に来ていただきたいかという理由を書いて郵送してから20年以上が経ちました。
講演会終了後、しばらくしてから「中等教育学校」での数学教育に手を貸してほしいというお誘いの電話がありました。志賀先生の思いを感じて思い切って北海道の公立高校を退職、先生と一緒に中高一貫数学コースを使用した授業に携わりました。3年後にこの授業が中止されても、先生は生涯教育としての数学教育の立場から、各種の啓蒙書を執筆し続けてきました。功成り名を遂げた方々が、心豊かな生活の一つとして昔学んだ数学の疑問を解決したい、いろいろなことを知りたいという知的欲求に対し、生涯教育の立場から取り組もうとする考えは、先生が執筆された「算数から見えてくる数学」、「大人のための数学」等の著書にも具体的にかかれています。
略歴
- 1930年
- 新潟県新潟市に生まれる。
- 1950年
- 旧制新潟高校理科入学。作家の野坂昭之氏が先輩になります。
- 1953年
- 新制新潟大学理学部数学科卒業
- 同年
- 東京大学大学院数物系数学科修士課程入学。矢野健太郎先生に師事。矢野先生が結婚祝で配った卍模様の風呂敷の話は目から鱗。
- 1955年
- 東京大学大学院数物系数学科修士課程修了
- 同年
- 東京大学大学院数物系数学科博士課程進学
- 1957年
- 東京大学大学院数物系数学科博士課程中退
- 同年
- 東京工業大学理工学部数学科助手
- 1964年
- 東京大学より理学博士号学位授与 (東京オリンピックの年)
- 1965年
- 東京工業大学理工学部数学科第1講座助教授
- 1965年
- 東京工業大学理学部数学科助教授
- 1975年
- 東京工業大学理学部数学科教授。
- 1988年
- 東京工業大学理学部数学科教授 退官
「無限」がわからなくなったのが理由だそうです。 - 同年
- 桐蔭横浜大学工学部教授
- 2000年
- 桐蔭横浜大学工学部教授 退職
- 同年
- 桐蔭横浜大学工学部客員教授 桐蔭学園中等教育学校用教科書 「中高一貫数学コース」執筆専念のための身分変更
- 2001年
- 桐蔭学園中等教育学校創立
自著「中高一貫数学コース」で中等教育学校1期生の授業指導開始。 - 2004年
- 中等教育学校の数学教科書切替に伴い、桐蔭横浜大学 客員教授退職
近況
慎んで志賀浩二先生ファンの皆さま、志賀先生との思い出をお持ちの皆さまに、ご報告させていただきます。
東京工業大学名誉教授の志賀浩二先生は、体調管理のためもあってしばらく入院しておりましたが、2024年2月17日(土) ご家族に看取られて93歳の人生を閉じられました。葬儀は、2月24日(土)横浜市南区斎場で家族葬および関係者で行われました。
私も亡くなる 5日前にご家族のご配慮で入院先の病院で志賀先生にお会いできました。残念ながら先生と直接言葉を交わすことはできませんでしたが、何回かご長女の方から先生に声をかけていただきました。いつも通りの厳しさの中に穏やかな顔でお休みになられていた姿を見られて感無量でした。公式の対外的な発表は、東京工業大学からなされますのご承知おきください。
なお、志賀先生に一言、思い出などがおありの方がおりましたら、当塾の「問い合わせメール」でお名前・年齢・所在地(県・市)、志賀先生のご逝去に一言、志賀先生に関する思い出などをかいていただいて、お送りください。ご家族にその意をお伝えの上でご了解いただければ、冊子の形でまとめて墓前に置かせていただくつもりです。
2023年8月4日 更新
志賀先生は今年で92歳です。毎日ニコニコ顔を絶やさず元気でお過ごしです。志賀先生のニコニコ顔に油断してあいまいな数学の話をすると表情がぱっと変わって、「それはちょっと違う」と話されて、その考えの間違っていること、あいまいなところを鋭く指摘されて自分の勉強不足を実感したものです。現在はご無沙汰が多いですが、今年中には一度お邪魔したいと思っています。大学受験などでも共通テストでは、わからないこと、想像が難しいことを考えるための学問である「数学」を、考える力を問うのだはなく処理能力を問う「情報」、「統計」へと切り替えさせようとする文科省の眼先にだけ注目した学習指導要領の改訂(それでいて国際卓越研究大学構想や理系学部重視の予算措置の矛盾)により、ハックスリーが予言した「1981年(ブレイブニューワールド)」の世界そのままに、事の善悪や人間が考えるということを全てAIに委ねるAIが裁判官・警察・政府を担う「一方的倫理観の世界」にのめり込んでいく恐ろしさを感じる今日この頃です。チャットGPTを無条件に受け入れることの怖さを感じられるかどうかで、今後が決まるでしょう。このことは志賀先生が常々言われていた「数学から概念が消えた」、「無限とは何か」という言葉の意味を考えるとわかります。
すなわち、無限とは「π」を考える上で量子コンピュータのようにどんなに高速な演算処理でもたどり着かないことが無限であると定義することで、人間が考える力で定義した概念ではなく、パソコンの処理能力だけで判断される考え方に今後は立つということです。これを一般化するとパソコンが過去のすべての事例に基づいた考え方に立って判断したのだから、論理の入り込む余地がないという世界の創出です。「人間が人間である」ことの最もわかりやすい例は、「合理性の対極にある感情」をもっていることです。
不合理の中に合理性を感じたり、合理性の中に不合理を感じる。無駄と思われることの大切さを理解出来るということがすべて否定される世界が「1981年」で表現された内容だと思っています。私が大学に入学してすぐ第1外国語の英語の授業のテーマがこれでした。目先のことに右往左往せず、100年の大計に立っ理念が必要ではないでしょうか。私の学生時代は、「日本は物を改良したりすることは秀でているが、そのもとになる基礎理論に基づく地味な研究をしないとおいていかれる」という危機感に立った大学での勉強研究の充実が叫ばれました。このことを考えると「輪廻転生」なのでしょうか。
2022年 更新
年が明け、満92歳です。お元気ですが、残念ながら最近塾での懇談会の開催は行っていません。
執筆活動も一段落して、最近は奥様と一緒に過ごされる時間も多くなったようで、奥様ともども健康管理優先で生活されております。
ただ、表面的には穏やかな毎日を過ごされているように見えますが、数学教育への情熱という点では熱いまま静かに沈潜しているだけで、マグマは噴火する機会を静かにうかが
っているように思われます。
2021年10月初旬 更新
コロナ禍が一段落して、私の2回目のワクチン接種も終わった時期に、1年半以上電話での会話だけであったことに耐えられなくなり、思い余って奥様に自宅への訪問の許可をお願いしました。家の周囲の散歩が予定されている日でしたが、快く了解いただいて妻と二人でお宅にお邪魔しました。最初は、頓珍漢な質問などしてあきれられたのですが、時間が経つにつれて私も先生も数学の話題に熱中して、それから延々3時間途切れることなくお話をすることができました。要所要所での会話の中で語られたことは、いまでも数学に対して考えておられる熱い思いを一杯浴びることができました。
志賀先生の著書は100冊以上あるそうです。先生がお話しされた中に「私は読者を含めて本当に良い時代に数学者という道を歩かせてもらいました」という言葉が忘れられません。志賀先生のなされたことを本当に理解するには私ごときでは全く不十分ですが、私が桐蔭学園に転職して3月の春休み中に志賀先生と1週間ほど熱海のホテルに閉じこもって、志賀先生がなさりたいことやこれから書いていく教科書の内容などについてゼミをしていただいたことを思い出します。東京から新幹線で岩波書店の編集長が何日か夕方来られて、会食しながら議論したことを思い出します。そんな折に何げなく私が志賀先生にお尋ねした「先生はどうして東京工業大学を早期に退職されたのですか」という問いに、先生は「無限がわからなくなったんですよ」と答えられました。私の能力のなさから、そうなのかと軽く考えていた先生の本当に言いたかった意味を7,8年前になってようやく理解できるようになってきました。
その一つの契機となったのが、先生のおっしゃった「数学から概念がなくなった」という言葉を聞いてからです。あらためて無い頭を絞り、集合の創始者であるカント―ルの目指した「無限のなかの数学」、バナッハやタルスキ―などポーランド学派に光をあてた「無限からの光芒」を読み返すことで、カント―ルとバナッハ、タルスキ―とを結びつける選択公理を中心とした無限概念と、数学から概念がなくなったと志賀先生に言わしめた意味の一端にたどり着いたように思います。ただ、私もそれなりの高齢者ということもあり、前進の一歩の歩幅が限りなく0に収束する毎日なのが悔しいです。志賀先生の本当の想いを何かの形で残せたらと切実に思っています。
追伸 芝浦工業大学の竹内先生とのメールのやり取りの中で、一松信先生が95歳で講演をしているというお話を聞きました。早速志賀先生にお伝えしたところ「ェヘヘッ」と笑い顔になりました。頑張って欲しいものです。志賀先生のお母様は102歳まで一人暮らしをされて、志賀先生は毎週上越新幹線で新潟のご実家まで通われていました。
そんな先生の心そのままに、当塾での大人向けサロンの開催や中高一貫数学コースを使った中学生に対するセミナーの開催には大変に乗り気になっておられます。この企画を先生にお話しすると、月に何回でも行くよと即答していていただき、隣で聞いていた奥様に「年を考えてください」とお叱りを受けてしまいました。この言葉からも、先生の数学教育に対する情熱の衰えはまったく感じられず、本質的な部分にこそ力を集中されようとするお気持ちが伝わってきます。(先生のお気持ちは変わりませんが、ちょっと出不精の面もあり現在懇談会は中止しております。誠に申し訳ありません)
最近、韓国の読者から塾に直接メールが来て志賀先生の「数学が生まれた物語」韓国版(ハンギル社)を高校時代に読んだ思い出と志賀先生の消息についての問い合わせがありました。岩波出版の担当者に連絡して手紙をやり取りしてもらいました。
つい最近、芝浦工業大学の竹内先生から「大人のための数学④ 広い世界へ向けて-紀伊国屋書店」を研究室のゼミで使いたいという問い合わせがあり、志賀先生も快く了解してくれました。ゼミでの使用は継続して行われています。
塾長の思い出 - その1
今から10数年前、お誘いを受けて私が中等教育学校に赴任した直後、先生と二人きりで1週間ほど合宿をする機会がありました。夕食時、岩波書店編集長もおいでのときに話したことを思い出します。
「東京工業大学を早く退官されたのはどうしてですか」という私の問いに、先生は「無限がわからなくなったんです」と答えられました。突然の思いもよらない答えにびっくりしたことを鮮明に覚えています。しかし、よく考えてみれば「無限からの光芒」、「無限のなかの数学」などの先生の著書の中に「無限」についてのものが何冊かあることに気付くと、これはうなずけることかもしれません。
昨年、中高一貫コースをともに指導した元同僚と先生を囲んで3人で食事をしたときにも、無限についてのお話がありました。パソコンなどにより、無限回操作することが有限回的な操作で得られることで、無限という「概念」が意味をもたなくなってしまったというようなことが骨子でした。先生にとっての無限は身近にある無限であり、私の感覚では無限に遠い無限なのだということをつくづく思いました。「数学から概念が失くなってしまった」とは、志賀先生が最近よく口にされる言葉です。