志賀先生が見ていたもの    - 知的好奇心の喚起

志賀先生が見ていたもの    - 知的好奇心の喚起

ある日ある時の志賀先生の一言から その3
  
[知的好奇心の喚起]

 

 志賀先生が話す「知的好奇心」を理解する上で最もわかりやすいことは、別にご自分の著書でなくても、数学以外のものでも一向にかまわず、その結果がすぐに得られるものであってもよいということが原点にあります。具体的に1つの例をあげれば、何かするとき、それが初めてのものでも、初めてでないいつもの繰り返しであってもよく、自分の得になることであっても相手に得になることであってもよいのです。本質的なことは「そこに何らかの疑問をもつ心のゆとりと自分と他者の存在を認めること。自分の可能性を信じて行動できること」。これさえあればそこに解決すべきテーマとそのための自分の行動を律する規範が生まれます。ですから、志賀流「知的好奇心」とは、「流される、あきらめる、考えない」ということの対極にある考え方なのです。だからこそ、言われた通りそのまま受け入れて仕方ないという形で済まさず、自分の気持ちとの乖離の幅とか、やれることや抜け出すことを「考える」という考え方をもった行動の中で、教えるという行為が行われているかどうかを判断することの大切さを意味しています。「知的好奇心の喚起」という言葉は非常に分かりにくい言葉ですが、それを素朴に考えて自分を律する学びの成立を願った言葉だと私は思っています。
志賀先生における知的好奇心の喚起については、これからも色々な場面で取り上げて議論することがあると思いますが、5月中旬、某大学の数学関係学科の先生から、「知的好奇心をもつ」ことについてのとらえ方に関して、次のようなコメントをいただきました。
紹介させていただくとともに、皆さん方からのご意見・ご感想などを募集させていただきます。ご意見・ご感想の発表は、HPの最終ページにある投稿欄をご利用ください。
 


 これだけインターネットが普及すると、興味のあることに関する「情報」はある程度はすぐ手に入ってそれで満足してしまい、それ以上深く追求するまでに

は至りにくいかもしれませんね。それは、情報過多で好奇心をもつ「余地」がないといった感じでしょうか。またその一方で、マニアックなほどに凝ったページを作成しYouTube等で提供している、情熱溢れる人たちがいるわけです。「知的好奇心の喚起」はそういう形で以前よりも多くの人々(湯川秀樹などの偉人だけでなく)によって身近に行われているものと思います。
 そう考えると知的好奇心には、情熱溢れる人たちによって、もはや「想像」することすら許さないくらい「出来の良い」メディアを媒体として伝達され、そ

れに興味をもって見た人たちは「想像」することなくそのまま受け取るだけで満足(それ以上の好奇心は持たない)、という構図があるように思います。
 昔はメディアに限界があって、すべては提供されない(できない)ので子供が「想像」できた(その結果、好奇心が生まれる)、というのが幸せだったのかもしれません。

 ちょっと話がずれるかもしれませんが、最近はX(旧Twitter)で、相手の理解度も知らずに数学書を紹介したり購入したりする投稿が多いなと感じています。そのようなことは昔からあるにはありましたが、昔はそういった意見が聞こえてくる範囲はだいたい限られており、ある程度は自分の身の丈に合った選択ができたと思います。ところがいまはネットで皆同格に匿名で投稿するので、自分とは全く背景の違う人の意見を自分にも当てはまると考えてしまうケースがあると思います。

 普段の投稿で基本的な数学の知識がないことが一目瞭然であるのに、別のある程度理解している人に薦められた本を買って理解できずさらに落ち込む、という流れをよく見ます。これはネットの弊害だなと感じています。

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